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陰膳と虎のお守り ~柳田国男「影膳の話」に関連して~

陰膳とは

 戦時中、出征した家族を待つ家では、その家族用に一人分の食事を供えて無事の帰還を祈りました。用意された食事は「陰膳」と呼ばれました。【写真1】のお膳は当時の様子をイメージして再現された資料です。この資料では、出征した家族の写真立ての前にお盆を置き、麦飯、お汁、漬物(沢庵)が供えられています。

 陰膳というと、このように戦争との関わりが大きい印象を抱きますが、もともとは仕事などで長く家を空けている家族に対しておこなわれてきた習俗でした。

写真立ての前に置かれている置かれたご飯

写真1 陰膳

柳田国男「影膳の話」

 柳田国男(1875~1962)は陰膳に注目し、「影膳の話」という短い文章を残しました(柳田国男は「陰」ではなく、「影」を用いています)。柳田は、陰膳とは「子供ででもなければ皆知って居る言葉」であり、「日本全国に一様に行き渡った、起源の最も遠い慣習」として「今回の大戦役以来、目に触れ問題になることが急に多くなりました」と関心を寄せています。陰膳が、戦時中に盛んにおこなわれていたことをうかがわせます。

 柳田は、陰膳をめぐる日本各地の名称や関連した年中行事について紹介し、家を空けている家族にお膳を供えるのは「たとえ箸をとり口の中に運ばずとも、もうそれだけで養いになるもの」と人びとは認識していたからであり、正月や節供、盆などに神や先祖にお膳を供えるのと同じであると考えました。このようなときは家族がそろって「祝いの膳」に並びますが、祝いに参加できない不在の者にも同様な振る舞いをして一緒に祝うのが本来の陰膳だとしました。これが後に、旅先での安全祈願、さらには戦地からの無事の帰還を祈ることへと人びとの思いが変化していったと考えたようです。

虎のお守り

 陰膳は名古屋でも見られ、『新修名古屋市史』民俗編では次のように記しています。

 家長などが所用で旅にでている間、一人前分の食事を作り、その膳を、いつも坐るところへ置き、無事に帰ってくるのを祈った。これをカゲゼン(陰膳)といい、家によっては毎食、ふだんと変わりのない食事を用意していた。

 出征兵士を送り出した家でも「オナカガスクトイカン」などと心配して、床の間などへ供えたりした。その床の間には、虎の軸を掛けたなどの事例も聞かれた。

 出征兵士の陰膳を床の間に供えたのは、床の間が家の中でも特別の場所だったからでしょう。柳田国男も「影膳の話」の中で、陰膳を「トクノ膳」という沖縄の事例を紹介しています。「トク」は床の間の「トコ」につながるとしました。

 床の間に掛けた「虎の軸」とは何を意味するものでしょうか。虎は「一夜にして千里を行き千里を帰る」といわれたことから、出征兵士の無事の帰還を祈る図柄として用いられました。出征した家族の身の安全を祈って、虎の軸が掛けられたのです。

 出征兵士本人に虎のお守りをもたせることもありました。弾丸除けのお守りである千人針には虎の図柄を縫うこともあり、寅年生まれの女性が縫うとよいとされました。

 博物館にも虎のお守り【写真2】が1点収蔵されています。縦36.8センチ、横18.9センチの布(人絹)に墨で虎を見事に描き、虎の口は紅く塗られています。保存状態もよいことから、実際に持たせることはなく未使用だったと思われます。この虎は、寄贈者の方によれば雌ということですが、その由来についてはよくわかりません。

白い布に墨で描かれた虎

写真2 虎のお守り

再び柳田国男「影膳の話」

 柳田国男の「影膳の話」の中でも、虎のお守りのような出征兵士の無事の帰還を祈る習慣として、「理由は全くわかりません」としながらも「なた豆」を食べさせる例を挙げています。鹿児島における二十三夜待(にじゅうさんやまち)の食事を取り上げ、旅に出て家を不在にしている者の無事を祈るためになた豆を供えたという事例も紹介しています。

 インターネットで検索すると、鹿児島のある食品メーカーが「西南戦争となた豆」というコラムを紹介していました。明治10年(1877)に勃発した西南戦争で戦死した薩摩の若者がなた豆をもっていたというものです。なた豆をもっていると元いた場所にかえることができるという言い伝えがあり、なた豆の上へ伸びたツルが下の方に戻ってくる性質に由来するとありました。また亡くなった若者からなた豆がこぼれ落ち、それが芽を出すことによって亡骸が見つかったという話も載せられています。これらの伝承は、柳田国男には残念ながら届かなかったようです。

 柳田は「影膳の話」の最後に、消息不明になった家族への陰膳について記しました。「はっきりとしたことが判るまでは、半年でも一年でも影膳を続けて居る」のは「旅と家との間に心の交通はある」からだとし、陰膳によって「本人たちの運命を、好転し得る」という望みを持っていたと締め括っています。

 戦時中の陰膳についても、「椀の蓋に露がたまつて居る限り、本人は丈夫で居る」という謂れが広がり、「銃後の静かなる家庭」では朝食時に「お椀の蓋の露を、熱心に見て居る人が非常に多くなった」と語りました。その一方で「必ずしも古くからの習わしで無かつたと言い添える必要がある」と述べ、柳田には戦時中の陰膳とそれまでの陰膳と区別したい意図があったように自分には感じられます。

 柳田の意図とは何だったのでしょうか。自分は未だ読み解くことはできませんが、日清戦争から太平洋戦争までの数々の戦争を経験した柳田には、戦争に対する何らかの想いが潜んでいたのかもしれません。

(天野卓哉)

※本資料は常設展示しておりません。あしからずご了承ください。

参考文献

 柳田国男「影膳の話」『定本柳田国男全集』14所収、1969年

 新修名古屋市史編集委員会『新修名古屋市史 第九巻 民俗編』、2001年

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